『蜻蛉日記』

古典への扉

 『蜻蛉日記』は、右大将・藤原道綱の母の日記。上・中・下の三巻より成る。下巻末には、道綱の母の歌集が付されてゐる。この当時の女性は、皇族や天皇の后妃でないと公式な記録に名前が残されることは少ないので、ほとんどの場合実名が判らない。そこで、女流日記の作者名も父や息子など親族の名前を用ゐて表される。『土佐日記』も前土佐守に仕へる女性が書いた体裁を採つてゐるが、実際には前土佐守・紀貫之自身が書いたものであり、本当の意味での女流日記文学はこの『蜻蛉日記』に始まる。(日記文学の先蹤とも言へる、女性が仮名で書いた行事などの記録はあるが…。)『枕草子』や『源氏物語』にも多大な影響を与へた。題名は、上巻の結びで作者自身が「かく年月は積もれど、思ふやうにもあらぬ身をし嘆けば、声あらたまるも喜ばしからず、猶ものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし。」と記してゐるのに拠る。
 小生は、注釈書を変へて5回読んだ。
 最初は、角川文庫『蜻蛉日記』(柿本奨 校注)で読んだ。柿本には『蜻蛉日記全注釈』(角川書店)の著があり、これはその縮約版である。脚注付きの本文を掲げ、その後に補注・解説・和歌索引・語句索引等を付す。現代語訳は無い。

 次に、新潮日本古典集成『蜻蛉日記』(犬養廉 校注)で読んだ。頭注形式で、本文の傍らにセピア色で一部現代語訳を付す。注は、詳細である。巻末に解説と付録として年表・系図・和歌索引を付す。

 次に、講談社学術文庫『蜻蛉日記全訳注』(上村悦子 訳注)で読んだ。本文を細かな段落に分け、段落ごとに、通し番号付きの小見出し・現代語訳・語釈・解説を付す。現代語訳は原文に対応するやうに心掛けながらも理解しやすいやうに言葉を補つてゐる。解説は丁寧である。上中下の三冊で、下巻の末に詳細な年表と作者・作品についての解説を付す。

 さらに岩波文庫『蜻蛉日記』(今西祐一郎 校注)で読んだ。今西が校注を担当した岩波書店「新日本古典文学大系」版を基にしてゐるが、注は若干簡略化されてゐる。角川書店『蜻蛉日記全注釈』(柿本奨 訳注)に従つて本文を段落に分け、通し番号を付してゐる。

 最後は、角川ソフィア文庫『新版 蜻蛉日記 現代語訳付き』(川村裕子 訳注)で読んだ。角川書店『蜻蛉日記全注釈』(柿本奨 訳注)及び角川文庫『蜻蛉日記』(柿本奨 校注)に従つて本文を段落分けして、小見出しを付け、脚注付きの本文を掲げる。その後に一括して現代語訳を載せる。現代語訳は、原文を尊重しながらもこなれた解りやすい訳になつてゐる。前2冊で、Ⅱ巻末に解説・年表・索引を付す。

 他に『蜻蛉日記』の主な注釈書としては、角川書店『蜻蛉日記全注釈』(柿本奨 校注)講談社文庫『蜻蛉日記』・岩波書店の新日本古典文学大系『土佐日記・蜻蛉日記・紫式部日記・更級日記』・小学館の新編日本文学全集『土佐日記 蜻蛉日記』・有精堂の『かげろふ日記全評解』・創英社対訳日本古典新書『かげろふ日記』などがある。
 角川書店『蜻蛉日記全注釈』(柿本奨 校注)は、本文を場面ごとに段落に分け、本文を掲げた後に校異(『蜻蛉日記』の現存写本は誤脱が多く本文整定が大きな問題である)・現代語訳・語釈を載せるが、語釈は極めて詳細である。
 講談社文庫『蜻蛉日記』(川瀬一馬 校注・現代語訳)は、独自の底本を採用し、脚注付きの本文を掲げ、後ろに現代語訳を載せる。脚注は簡素だが、補注が丁寧である。上中下の3冊で、上巻末に解説、下巻末に和歌索引・語句索引を付す。

 岩波書店新日本古典文学大系『土佐日記・蜻蛉日記・紫式部日記・更級日記』(『蜻蛉日記』校注今西裕一郎)は、脚注形式で、上記岩波文庫版の基になつたものだが、脚注は文庫版よりもやや詳しい。

 小学館の新編日本文学全集『土佐日記 蜻蛉日記』(『蜻蛉日記』の訳注は木村正中・伊牟田経久)は、三段組で、真ん中に本文を置き、上に頭注、下に現代語訳を配する。旧「日本文学全集」版と訳注者は同じだが、訳注を見直してゐる。現代語訳は、原文を尊重しながらも、内容を理解しやすいやうに言葉を補つてゐる。
 有精堂の『かげろふ日記全評解』(村井順 訳注)及び創英社対訳日本古典新書『かげろふ日記』(増田繁夫 訳注)は未見。

 今、『蜻蛉日記』を原文で読むならば、やはり携帯しやすく解説の詳しい講談社学術文庫版か最新の角川ソフィア文庫版がよいと思はれる。古典をかなり読み慣れてゐる人ならば、岩波文庫版でもよいが、『蜻蛉日記』は必ずしも読みやすい古典ではないので、一般には、現代語訳の付いてゐる講談社学術文庫版か最新の角川ソフィア文庫版が安心だらう。
 教科書には、百人一首にも採られた「嘆きつつ一人寝る夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る」の歌を作者が詠んだ前後の状況が判る「町の小路の女」の段、作者と諍ひをした兼家が幼い道綱に「私はもう来ないつもりだ」と言ひしばらく訪れが絶えた「ゆするつきの水」の段、兼家との不仲に悩む作者が「尼になつて夫との仲を思ひ切れるか試してみたい」と言ふと、息子道綱が「さうしたら自分も法師になります」と言つて飼つてゐた鷹を放した「鷹を放つ」の段などが、よく採られてゐる。『蜻蛉日記』を読む際に平安時代の婚姻制度について説明することが多かつた。小生は、教材研究の際には、講談社学術文庫版・岩波「新古典大系」版・小学館「新編古典全集」版を基本とし、適宜角川「全注釈」を参照した。角川ソフィア文庫版が出てからは、それも見るやうにした。
 さらに深く『蜻蛉日記』を読み込みたいならば、上村悦子『蜻蛉日記解釈大成』(明治書院)などを参照されたし。

 ところで、王朝女流日記は〝日記〟と呼ばれてはゐるが、現代人のイメージする〝日記〟とは異なる部分がある。すなはち、日々の出来事をその日その日に書き留めたものではなく(必ずしも月日は明示されない)、自己の半生を回想して書かれたものが一般的である。いはば、自伝及び私小説に近い側面がある。
 それに対して、男性の日記は、月日を明示して、その日の出来事を漢文で即日書き記すことを原則とし、時に自己の心情を吐露することもあるが、基本的には、子孫のために行事などのノウハウを書き遺す、家の記録としての性格が強い。

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