2025.11.27
朝倉かすみ『平場の月』(光文社文庫)読了。
刊行時に評判だつたので、読まうと思つて買つて積ん読になつてゐた。(恥づかしながら、さういふ本の何と多いことか。)それが堺雅人と井川遥の主演(監督は土井裕泰)で映画化されたので、この小説のことを思ひ出して、この機会に読むことにした。
青砥健将と須藤葉子は、中学の同級生である。冒頭で、二人が50歳になつて偶然再会した時の回想とともに、青砥が供花を買はうとしてゐることが語られる。さらに、青砥が人伝に須藤の訃報を聞いた場面になる。その描写から、青砥にとつて死んだ須藤は特別な存在だが、しばらく会つてゐなかつたことが判る。冒頭でヒロインの死が告げられることで、読者は、青砥と須藤の二人がどのやうな関係で須藤はなぜ死んだのかに思ひを馳せながら、物語を読み進めることになる。
ここからは、いはゆる〝ネタばれ〟を含むので、小説を未読の人は、スルーされたし。
青砥は、胃の内視鏡検査のために訪れた病院の売店で、派遣社員として働いてゐた須藤と再会する。青砥は中学生の時に須藤に告白して断られたことがあるが、実は須藤も青砥に好意を抱いてゐた。それぞれ、離婚してアル中になりかけたり母親が認知症になり自分のことも判らなくなつたり、同僚の夫(酒乱)を略奪したが死別したり若い男に貢いで自分も浪費するやうになつたり、人生の辛酸を嘗めて、今は東京から故郷に戻つてうらぶれた生活をしてゐる。中年の二人の恋は、それぞれが抱へてゐるものも多く、若者のやうに向かう見ずなものではなく、相手や周囲に配慮しながら、いはば〝太陽〟ではなく〝月〟のやうに静に燃え上がる。互ひに思ひ合ひ、癒される存在と出逢へたことで、須藤の言葉を用ゐれば「ちょうどよくしあわせなんだ」といふ気持になれたのである。
そこにはTVドラマのやうなキラキラした輝きは無い。物語の舞台は、埼玉県朝霞市である。須藤の提案で始まつた〝景気づけ合いっこ〟も、焼き鳥屋から安上がりな家飲みになる。二人が着るのは主にユニクロで、須藤の家具は「コジマ、ニトリ、通販」である。〝等身大の大人の恋愛小説〟と評される所以である。そして、青砥の生検の結果は良性だつたが、時を同じくして検査した須藤は直腸に進行性の癌が発見される。切除する腫瘍の位置が肛門に近いので、ストーマ(人工肛門)を造設することになるといふ。(須藤が内視鏡検査をするといふ段階で、〝癌が発見されて死ぬのだらう、それゆゑ須藤は自分から青砥と距離を取つたのだらう〟と結末が推測されてしまふので、冒頭でヒロインの死を告げてしまふのが好かつたのかどうか…。)かつてヒロインが不治の病に冒されるといふ設定の恋物語が流行したが(確かに切ない極限状況ではあるが次から次へと同工異曲の話が書かれると辟易する)、50歳の人間に癌が発見されるのは誰にでもありうることで、直腸癌の場合にストーマを造設するのもよくあることである。ただ、恋愛小説のヒロインがストーマの扱ひに失敗したりオナラに悩んだり臭ひに神経質になつたりといつたことは、今までに書かれたことが無かつた(と思ふ)が、リアルに共感できるだけに、哀切で胸が締め付けられる。
映画『平場の月』(土井裕泰 監督)も観たので、個人的な感想を若干書き付けておく。
井川遥も堺雅人も、中年の男女の複雑な心情をよく表現してゐた。須藤の配役に井川遥は綺麗過ぎるのではないかと思つたが、すつぴんに近いメイクで、低めの声で少しぶつきらぼうに話すのも須藤の〝太い(芯のある)〟キャラクターに合つてゐた。青砥との未来を夢見ながらも他人に頼ることを拒む、屈折した意地つ張りな性格を巧く表現してゐた。二度目の手術の後の病床での窶れた姿にも悲愴感があり、メイクだけではなく実際に瘦せたのではないかと思はせるほどだつた。堺雅人の演技も、あれこれと考へて躊躇しながらも「このひとと生きていきたい」と思ふ青砥の一途な心情が伝はつてくる繊細なものだつた。子役の二人(坂本愛登・一色香澄)も、二人を見守る焼き鳥屋の主人(塩見三省)も、ウミちやん役の安藤玉恵も好かつた。原作で章題になつてゐる重要な須藤の台詞も、映画ではその多くが活かされてゐた。満月は中学時代の回想にしか現れず、大人になつてからの月はどこかが欠けてゐるといつた、背景の〝月〟の使ひ方も巧みである。平場の(市井の)特別ではないごく普通の人の悲恋を描いて、切ない余韻の残る佳い映画だつたが、小生としては、中学時代の回想の中の原作には無い二人の関はりは不要だつた(原作通り淡いものでよかつた)のではと思つた。(家族を棄てて出て行つた須藤の母が男に棄てられて帰つて来たものの夫に追ひ返されるところを青砥が見てゐたといふのも、作り過ぎだらう。)ただ、原作には出て来なかつた、薬師丸ひろ子の「メインテーマ」は、場面(特に最後の須藤の死を知つた後に行きつけの焼き鳥屋で青砥が号泣するシーン)に合つてゐて好かつた。エンドロールで流れる主題歌・星野源の「いきどまり」も好かつた。ちなみに、須藤が働く印刷所のロケ地は、知る人ぞ知る老舗の印刷所「精興社」である。小生の蔵書の中でも岩波書店の『鷗外全集』や『荷風全集』や筑摩書房の『石川淳全集』や古い岩波文庫などは、精興社の印刷である。



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