『万葉集』は、奈良時代末に成立した現存する最古の歌集である。全20巻、4500首余の歌を収め、編纂には大伴家持が何らかの形で関はつたとされる。
『万葉集』は、すべての歌が漢字で書かれてをり、しかも漢文(古代中国語)の語法に従つたものと漢字の意味を利用したものと漢字の音を利用したものとがある。読解には、その読みを再現する作業が初めに必要になる。天歴5年(951)村上天皇の詔により梨壺の五人(清原元輔・紀時文・大中臣能宣・源順・坂上望城)が訓み解いて記した訓点を〝古点〟と言ひ、鎌倉時代中期に将軍頼経の命によつて僧・仙覚が源親行の後を受けて諸本を校訂し改めた訓点を〝新点〟と言ふ。古点よりも後で、新点よりも前に付けられた訓点を〝次点〟と言ふ。さらに江戸時代の契沖・賀茂真淵や近代以降の学者たちによつてさまざまに読み解かれてきた。それでも読み方の不明な歌や説の分かれる歌が今なほ存する。
本文は、平安時代の古写本も存在するが一部しか残つてをらず、完本としては鎌倉時代後期書写の「西本願寺本」が現存最古である。現行注釈書の本文は、かつては江戸初期の流布本(刊本)「寛永本」を使用するものが多かつたが、近年は多くが「西本願寺本」を底本とする。
小生は、随分前に角川文庫の『万葉集 「新編国歌大観」準拠版』(伊藤博 校注)で読んだ。これについては、後で案内する。
古典の中でも『万葉集』は注釈書が多いので、グループに分けて紹介しようと思ふ。(なほ注釈の用語は、各注釈書の表記を尊重した。)
まづ個人による戦後の主な全注釈を掲げておく。
窪田空穂 訳注『萬葉集評釈』(東京堂出版)。窪田は、歌人・国文学者で、古典の注釈に功績がある。(『新古今和歌集評釈』は、小生も持つてゐる。)2023年、『現代語訳 源氏物語』が復刊された。(「光る君へ」効果の好ましい例である。)『万葉集評釈』は、詞書とその題意、訓み下し文・原文を掲げ、語釈・訳・評を付す。語釈は詳細である。訳は、解りやすく言葉を補つてゐるが、ちと古めかしい。
武田祐吉 訳注『増訂 萬葉集全注釈』(角川書店)。武田は、国文学者で上代文学の研究者。『増訂 万葉集全注釈』は、詞書とその釈(語釈)、書き下し文と原文を2段組で掲げ、訳・構成・釈(語釈)・評語・参考を付す。訳は、解りやすく言葉を補ひ、時に語順を変へてゐる。釈(語釈)は詳細である。
武田祐吉 校注『萬葉集全講』(明治書院)は、上記「全注釈」後の研究の進展を踏まへ、簡潔に注釈したもの。考証は省かれてゐるが、「全注釈」を訂正・補足した部分がある。詞書・歌について、2段組で書き下し文・原文を掲げ、注解を付す。訳は無い。
土屋文明 訳注『萬葉集私注』(筑摩書房)。土屋は、歌人・国文学者。『万葉集私注』は、原文・訳文(訓み下し)・大意・語釈・作者及作意を付す。語釈は詳細である。
沢瀉久孝 訳注『萬葉集注釈』(中央公論社)。沢瀉は、国文学者で『万葉集』研究の大家。『萬葉集注釈』は、詞書とその解説、2段組で原文と訓み下し文を掲げ、口訳・訓釈(一纏まりの句への注)を付す。口訳は原文に忠実である。訓釈は詳細である。
伊藤博 訳注『萬葉集釈注』(集英社)。伊藤は、国文学者で『万葉集』研究の大家。『萬葉集釈注』については、文庫版の注釈のところで案内する。
多田一臣 訳注『万葉集全解』(筑摩書房)。2段組で、上段に本文(訓読)と現代語訳を掲げ、下段に注釈を置き、後部に補注を付す。現代語訳は、やや意訳してゐるが、こなれてゐて解りやすい。個人による『万葉集』全注釈として最新のものである。
次に古典注釈の叢書に所収のものを紹介する。
朝日新聞社の日本古典全書『新訂 萬葉集』(森本治吉 解説 佐伯梅友・藤森朋夫・石井庄司 校注)。頭注形式で、後半に纏めて原文を載せる。
岩波書店の日本古典文學大系『萬葉集』(高木一之助・五味智英・大野晋 校注)。巻頭に解説と校注の覚え書きを載せる。本文は、見開きで左右ページが対応する。右ページに原文を載せ、下に校異を付す。左ページに訓み下し文を載せ、頭注(語句・大意)を付す。頭注は、高度な内容で、一時代を劃した。巻末に補注を付す。
小学館の日本古典文学全集『萬葉集』(小島憲之・木下正俊・佐竹昭広 訳注)。3段組で、中央に読み下し本文を置き、下段に原文と口語訳、上段に注解を載せる。口語訳は、原文に忠実で、句間にスペースを置き原文と対照させやすくしてゐる。(枕詞は括弧の中に入れて記す。)注解も丁寧である。巻末に校訂付記・解説・年表・人名一覧・地名一覧・系図・地図・初句索引を付す。

塙書房『萬葉集 本文篇』(佐竹昭広・木下正俊・小島憲之 校訂)。上記小学館の日本古典全集本は原文も載せるが、その校注者が校訂した『万葉集』本文。「西本願寺本」を底本とし、諸本により校勘して、総ふりがなで読みを示す。1冊本で使用しやすいこともあり、『万葉集』の本文(漢字)を見るのに広く用ゐられる。下の写真は、小生が大学の授業(40年以上前)で使用したもの。現在は新出資料の内容を盛り込んだ「補訂版」が刊行されてゐる。漢字交じり平仮名に書き下した『萬葉集 訳文篇』もある。

新潮社の日本古典集成『万葉集』(青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎 校注)。頭注形式で、口語訳(色刷り)・釈注(作歌事情・時代背景など)・語釈を載せる。原文は無い。口語訳は、原文を尊重しながら、必要な言葉を補ひ、解りやすい。
有斐閣の『万葉集全注』(伊藤博・稲岡耕二・西宮一民・木下正俊・井村哲夫・吉井巌・渡瀬昌忠・井手至・金井清一・阿蘇瑞枝・小野寛・曽倉岑 訳注)。戦後万葉学の多彩な成果を結集した清新な注釈とのことで、1人1冊訳注を担当。恥づかしながら、小生未見。
岩波書店の新日本古典文学大系『万葉集』(佐竹昭広・山田英雄・大谷雅夫・山崎福之・工藤力男 校注)。訓み下し文・原文を掲げ、脚注(口語訳・注釈)を付す。口語訳は、原文を尊重しながら、解りやすく言葉を補つてゐる。巻末に人名一覧・地名一覧・枕詞一覧を載せる。
小学館の新編日本古典文学全集『万葉集』(小島憲之・木下正俊・東野治之 訳注)。日本古典文学全集版と同形式で、同書を踏まへながら、訳注者を一部変更し、最新の研究成果を取り入れて訳注を見直してゐる。
明治書院の和歌文学大系『万葉集』(稲岡耕二 校注)。読み下し文・原文を掲げ、脚注を付す。現代語訳は無いが、注は詳細である。
最後に文庫の注釈書を紹介する。
岩波文庫『新訂 新訓 万葉集』(佐佐木信綱 編)。「寛永版本」を書き下し文に改めたもの。脚注は、新訓の根拠や訓と本文に関する異説を記す。判型の制約から原文は載せず。

岩波文庫『白文 万葉集』(佐佐木信綱 編)。上記『新訂 新訓 万葉集』に対応する原文。「寛永版本」からふりがなを除き白文としたもの。

角川文庫『萬葉集』(武田祐吉 訳注)。武田の前著『新定萬葉集』(有精堂)を踏まへ、万葉集の本文(書き下し文)を掲げ、簡単な脚注を付したもの。

旺文社文庫『現代語訳対照 万葉集』(桜井満 訳注)。2段組で、上段に本文(読み下し文)を掲げ、下段に口訳(現代語訳)と注解を対照させる。口訳は本文を尊重して極端な意訳は避けながら、理解に必要な語句を補つてゐる。注は簡潔であるが、一部詳細な補注を付す。後部に解説・人名地名総覧・主要地図・系図を載せる。解説中で万葉集中の名作や注目すべき作品について解釈と鑑賞を付す。

講談社文庫『万葉集 全訳注 原文付』(講談社文庫)。2段組で、上段に読み下し文と原文を掲げ、下段に口訳(現代語訳)・語注を載せる。文庫本の『万葉集』注釈書で、原文と現代語訳をも載せたのは、本書が最初である。(多くの内容を盛り込むために、口訳・語注の活字は小さい。)

角川文庫『万葉集 「新編国歌大観」準拠版』(伊藤博 校注)。伊藤が校注に参加した新潮日本古典集成版の成果を踏まへ、『万葉集』の原文を書き下し文に改め、脚注を施したもの。現代語訳は無い。伊藤は、万葉歌を群として読むことを重視してをり、歌が群を成す場合、その構成に関する見解を述べる。
小生は、この書で『万葉集』を通読した。
なほ『万葉集』の注釈書では、各歌に「(旧)国歌大観」番号を付すのが通例だが、角川書店刊行のものは「新編国歌大観」番号を付し、「(旧)国歌大観」番号を併記する。

集英社文庫ヘリテージシリーズ『萬葉集 釋注』(伊藤博 訳注)。『萬葉集釋注』(集英社)を基に再構成して、文庫化したもの。本文(書き下し文)を掲げ、続けて釈文(歌群に対する考察)を載せる。原文は原則割愛。(一部、必要な場合は本文の後に掲げる。)現代語訳は、釈文の中に掲げ、原文を尊重しながら必要に応じて言葉を補つてゐる。巻末に補注を付し、さらに解説・エッセイ・初句索引を置く。最大の特徴は、万葉歌は、歌群として味はふことで真価を表す場合が少なくないとし、歌群ごとに本文を提示し、注解を加へた点である。

角川ソフィア文庫『新版 万葉集 現代語訳付き』(伊藤博 訳注)。『万葉集 「新編国歌大観」準拠版』(角川文庫)に『萬葉集釋注』(集英社)の成果を踏まへて口語訳を加へ、改訂したもの。口語訳は、『萬葉集釋注』(集英社文庫)のものを手直ししてゐる。作業の途中で伊藤が死去したため、梅林史・川島二郎・田中大士がその後を引き継いだ。

岩波文庫『万葉集』(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之 校注)。新日本古典文学大系版を基にし、見開きで、右ページに訓み下し文、左ページに注釈(口語訳・注釈)を収める。注釈は、新日本古典文学大系版よりも簡略になつてゐるが、訂正してゐる箇所もある。巻末に用語解説・文献解説・万葉集年表・解説を付す。

岩波文庫『原文 万葉集』(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之 校注)。上記『万葉集』に対応する原文。「西本願寺本」を底本とし校訂を加へ、傍訓を施す。

今、原文で『万葉集』を読むなら、やはり新しい注釈で携帯の便を考へると(文庫にしてはやや厚いが)、角川ソフィア文庫『新版 万葉集 現代語訳付き』(伊藤博 訳注)か岩波文庫『万葉集』(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之 校注)が好いと思ふ。携帯することを考へなければ、小学館の新編日本古典文学全集『万葉集』(小島憲之・木下正俊・東野治之 訳注)などもよい。いづれも4〜5冊なので読み通すのに手頃(?)だらう。じつくり深く読み込みたいなら、沢瀉久孝 訳注『萬葉集注釈』(中央公論社)や集英社文庫ヘリテージシリーズ『萬葉集 釋注』(伊藤博 訳注)、(小生は未見だが)有斐閣の『万葉集全注』(伊藤博・稲岡耕二・西宮一民・木下正俊・井村哲夫・吉井巌・渡瀬昌忠・井手至・金井清一・阿蘇瑞枝・小野寛・曽倉岑 訳注)など大部の注釈書を併せ見られたし。
小生、授業で『万葉集』を扱ふ際には、職場では、岩波書店の日本古典文學大系『萬葉集』(高木一之助・五味智英・大野晋 校注)が大抵あるので、これと他に職場にある注釈書——職場によつて沢瀉久孝 訳注『萬葉集注釈』(中央公論社)だつたり新潮社の日本古典集成『万葉集』(青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎 校注)だつたり——を見て、家では、小学館の日本古典文学全集『萬葉集』(小島憲之・木下正俊・佐竹昭広 訳注)と旺文社文庫『現代語訳対照 万葉集』(桜井満 訳注)・講談社文庫『万葉集 全訳注 原文付』(講談社文庫)、さらに久松潜一『万葉秀歌』・島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其の批評』・山本健吉『万葉秀歌鑑賞』・上村悦子『万葉集入門』・神野志隆光 編『万葉集鑑賞事典』(いづれも講談社学術文庫)・伊藤博『万葉のいのち』・『万葉のあゆみ(いづれも塙新書)・大岡信『私の万葉集』(講談社現代新書その後講談社文芸文庫)などの秀歌選・入門書を見るやうにした。(岩波の新日本古典文学大系や伊藤博の一連の注釈書が出てからは、それも見た。)ただし、最近は、大学入試でも上代(主に『万葉集』)からの出題が減り、授業でも以前よりも『万葉集』を扱ふことが少なくなつた。したがつて、小生も最近の『万葉集』関連本については疎くなつてゐる。(良書を紹介し損ねてゐたら、申し訳無い。)
さて、『万葉集』と『源氏物語』はなかなか原文で通読することが難しい。この「古典への扉」の投稿では、古典を原文で読むための注釈書を、全注に限つて紹介してゐるが、例外的に『源氏物語』では「その二」で現代語訳を紹介した。『万葉集』も、4500首余を読むのには、根気と時間が必要である。そこで、秀歌選や入門書・概説書の類を利用して、『万葉集』のエッセンスを味はふのも一つの方法である。実際、『万葉集』の秀歌選は、『古今集』や『新古今集』と比較しても多い。ただ、以前は文庫・新書や選書の類(特に講談社学術文庫・講談社現代新書やNHKブックスあたり)で『万葉集』の入門書や秀歌選が何冊も出版されてゐたのだが、近年その大半が版元品切れになつてしまつてゐる。現在、手軽に手に取れるものとしては、岩波ジュニア新書の鈴木日出男『万葉集入門』・講談社文芸文庫の大岡信『私の万葉集』・ちくま学芸文庫の中西進『万葉の秀歌』・角川ソフィア文庫ビギナーズ日本の古典『万葉集』あたりだらうか。大きな書店に行かないとなかなか置いてゐないが、はなわ新書(塙新書)には『万葉集』関連の本が多数収録されてゐる。(岩波新書の斎藤茂吉『万葉秀歌』などもあるが、時に優れた実作者の鋭い鑑賞が魅力的だつたりもするものの、根岸短歌会・アララギ派の『万葉集』理解はかなり偏つた見方によるものなので、『万葉集』を正しく理解するには、やはり専門家の手による新しいものがよいと思ふ。)



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