2025.10.28
中島国彦『森鷗外 学芸の散歩者』(岩波新書)読了。
森鷗外の生誕160年・没後100年に当たる2022年(令和4年)に刊行された、鷗外の評伝である。刊行時に読まうと思つて買つたが、恥づかしながらやはり積ん読になつてゐた。(今でも漫画を除いて年に200冊くらゐは本を買ふが、なかなか読みきれない。読めないのになぜ買ふのかといふと、純文学や学術書は再版されないことも多く、出た時に買つておかないと読まうとした時に入手できなくなつてしまふかもしれないからである。)
著者の中島国彦は、近代日本文学の研究者。早稲田大学名誉教授・日本近代文学館理事長。『近代文学に見る感受性』(筑摩書房)・『漱石の地図帳 歩く・見る・読む』(大修館書店)などの著書があり、『白秋全集』『荷風全集』『漱石全集』の編纂などにも携はつた。現在刊行中の永井荷風『断腸亭日乗』(岩波文庫)の校注者の一人でもある。
小生、鷗外についての評論・評伝は、高校・大学の頃に石川淳『森鷗外』(岩波文庫)・中野重治『鷗外 その側面』(筑摩叢書)・山崎正和『鷗外 闘う家長』(新潮文庫)は読んだが、もう半世紀近く前のことなので細かいことは覚えてゐない。
中島のこの書は、学者らしく、鷗外の生涯を多岐に亙る資料を踏まへて丁寧に纏めてゐて、鷗外の人生を知るには絶好の書だと思はれる。(小生にとつては、特に新しい発見は無かつたが…。)
ただ、新書といふジャンルの性質もあるのだらうが、全体にそつなく纏められてゐて、いはばガイドブック的で、筆者の鷗外に対する熱量はあまり感じられない。(まあ、学者なのだから、石川のやうに威勢の好い啖呵を切る必要は無いが…。)また、鷗外の医師としての側面については表面的にしか触れられてゐないが、筆者の専門外でもあり量的な制約もあり仕方が無いのだらう。
もつとも、文中で触れられる資料については、その初出などの情報を示してくれてゐて、自分でも調べる際には便利である。同時代の証言などもしばしば引用される。例へば、鷗外のドイツ三部作が出揃つて半年ほど後の1891年8月3日に、まだ大学生だつた夏目漱石が、「僅かに二短篇を見たる迄にて」と断りながら「当世の文人中にては先づ一角ある者と存居候」として、正岡子規に書いた手紙の鷗外作の印象を書いた箇所を引用してゐる。
結構〔作品の組み立て〕を泰西に得思想を其学問に得行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候右等の諸分子相聚つて小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思はれ候
若き漱石は早くも鷗外の作品の特質を指摘してゐる。
鷗外の著作についても、その肝となる所を引用してゐる。例へば、晩年の史伝『澀江抽斎』では、抽斎が勤王の心情に反対する若侍の襲撃を受けた際に入浴中だつた妻五百が駆け付けた名場面が引かれる。(実際にはもつと長く引用されてゐる。)
五百は僅に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であつた。口には懐剣を銜へてゐた。そして閾際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであつた。小桶からは湯気が立ち升つてゐる。縁側を戸口まで忍び寄つて障子を開く時、持つて来た小桶を下に置いたのであらう。
五百は小桶を持つたまゝ、つと一間に進み入つて、夫を背にして立つた。そして沸き返るあがり湯を盛つた小桶を、右左の二人の客に投げ付け、銜へてゐた懐剣を把つて鞘を払つた。そして床の間を背にして立つた一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。
熱湯を浴びた二人が先に、欛に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。
勿論、親友の賀古鶴所に口述筆記させた「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死ノ別ルゝ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス」といふ有名な遺言も引用されてゐるが、小生が最も共感する鷗外の言葉は、「福岡日日新聞」第6000号(1899年9月16日)の紙面に乞はれて書いた、「我をして九州の富人たらしめば」の一文である。
芸術の守護と学問の助長とは、近くは同世の士民を利し、遠くは方来の裔孫を益す。富人の当に為すべき所のもの、何物かこれに若くべき。
「文藝の主義」の中の同じ趣旨の言葉が、帯にも引かれてゐる。
学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄える筈がない
自分の〝お友達〟や支援者には便宜を図り、自分に批判的な学者や文化人は迫害し、〝選択と集中〟で、大企業の商品開発などに繋がる研究には予算を付けるが基礎研究には冷淡な、どこかの国の大統領や首相には、鷗外の慧眼は理解できないのだらう。



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