2026.02.27
司馬遷『史記 七(世家 下)』(吉田賢抗訳注)(明治書院・新釈漢文大系)読了。「孔子世家第十七」から「三王世家第三十」まで。新釈漢文大系版で15冊中9冊目。昨年後半は、『断腸亭日乗』とその関連本や『寝覚』が読書の中心で、『史記』からはちと遠離つてゐたが、今年は、できれば『史記』を読み通したい。
「世家」は、諸侯の歴史であり、孔子は、本来なら「列伝」で扱ふべきだが(古来さういふ批判はある)、司馬遷は、「孔子世家第十七」の末尾で次のやうに述べてゐる。(以下、書き下し文の引用は、新釈漢文大系に拠る。現代語訳は、新釈漢文大系のものを小生が若干手直しした。ただし、ウェブ上の制約から、振り仮名は省く。)
孔子は布衣にして、十餘世に傳へ、學者之を宗とす。天子・王侯より、中國の六藝を言ふ者、夫子に折中す。至聖と謂ふ可べきなり。
【現代語訳】
孔子は無官の身でありながら、その教へは十余代に渡つて伝はり、学者はこれを宗家として尊崇してゐる。天子・王侯を初めとして、中国で六芸について語る者は皆、孔子の教へから適当なところを採つて自分の意見としてゐる。まことに至聖といふべきである。
司馬遷の孔子に対する尊崇の念が窺へる文章である。
知つての通り、秦は、厳しい〝法治主義〟の国であつた。漢は、その反動から(勿論実質的には法治主義が存続するが)、〝黄老思想(道家思想)〟が広まるやうになる。(秦を破つて関中に入つた劉邦は、「法は三章のみ。人を殺す者は死し、人を傷け及び盗するは罪に抵る。餘は悉く秦の法を除去せん。」と宣言して、民衆の支持を集めた。)しかし、黄老思想は国家運営には不向きであり、董仲舒の献言を受け入れ、武帝は儒教を国家正統の学とし、儒教が隆盛を誇るやうになつてゆく。『史記』の基底にあるのは、道家思想とともに儒教的歴史観である。司馬遷は「太史公自序」の中で、亡父の遺志を継ぐ意志を述べる。
太史公曰く、先人言へる有り、周公卒してより、五百歳にして孔子有り。孔子卒して後、今に至るまで五百歳。能く明世に紹ぎ、易傳を正し、春秋を繼ぎ、詩・書・禮・樂の際に本ぬるもの有らん、と。意斯に在るか、意斯に在るか。小子何ぞ敢へて讓らん、と。
【現代語訳】
太史公(司馬遷)は言ふ。「亡父がこのやうに言つたことがあつた。『周公が亡くなつてから、五百年して孔子が現れた。孔子が死んでから、今日に至るまで五百年。この聖明の世に彼らの所業を継いで、「易」の注釈を訂正し、「春秋」を継いでそれ以後の歴史を述べ、「詩」「書」「礼」「楽」の根本思想を究明する人物が出てほしいものだ。』と。亡父の遺志は、ここにあつたのであらうか、ここにあつたのであらうか。私はこの大任をどうして辞退などできよう。」と。
『史記 七(世家 下)』中「孔子世家」以外は、秦打倒から漢建国に至る歴史で功績のあつた者で王や諸侯になつた者、劉氏の一族や外戚で王や諸侯になつた者などの歴史である。
中でも印象深いのは、「留侯世家第二十五」すなはち張良(子房)の伝である。下邳の土橋の畔で出逢つた老人に太公望の兵法書を授かつた話は実説ではないだらうが、張良は、多病のため将軍になつたことはなく一度も戦闘の功績が無かつたにも拘はらず、功臣を封ずるに際して、高祖をして次のやうに言はせてゐる。
籌策を帷帳の中に運らし、勝を千里の外に決するは、子房の功なり。自ら齊の三萬戸を擇べ。
【現代語訳】
計を帷帳の中に運らして、勝利を千里の外に決定したのは、子房の功績である。自ら齊の三萬戸の封邑を択べ。
しかし、張良は、
始め臣、下邳より起り、上と留に會へり。此れ天、臣を以て陛下に授けしなり。陛下、臣が計を用ゐ、幸にして時に中れり。臣願はくは留に封ぜられなば足りなん。敢て三萬戸に當らず。
【現代語訳】
初め私は下邳から起つて、江蘇の留で陛下とお会ひしました。これは天が私を陛下に授けたものです。陛下は、私の計略を採用なさつて、幸ひにも時宜に的中しました。私は、願はくは留に封じていただけば十分でございます。私の功が三万戸に該当するとは決して思つてをりません。
と答へ、留に封じられた。高祖が呂后の子の太子を廃して寵愛する戚夫人の子の如意を太子に立てようとしたのを防いだこととともに、かうした謙虚さが、漢帝国成立後に黥布や韓信ら多くの功臣が粛清された中で、張良が無事を保つた所以であらう。前に実説ではないだらうとしたが、韓の宰相の家柄でありながら、下邳の老人の失礼な言ひつけに従つて履を拾ひ、何度も早朝・夜半に出向いたことなどにも、善良さを感じる。
『史記』は、司馬遷の死後も加筆・修正がなされたが、この『史記 七(世家 下)』は特に多い気がする。また、「三王世家第三十」は、『史記』の亡失した十篇中の一で、漢の褚少孫が補修したと称せられるものが伝承されたといふのが定説であるとのこと。残念である。


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