2025.06.09
司馬遷『史記 十(列伝 三)』(水沢利忠 訳注)(明治書院・新釈漢文大系)読了。「蒙恬列傳第二十八」から「季布欒布列傳第四十」まで。新釈漢文大系版で15冊中7冊目。
この巻では、彭越・黥布・韓信といつた漢初の功臣たちが登場する。(目次を見ると「淮陰侯列傳第三十二」に続いて「韓信盧綰列傳第三十三」があり、小生「あれ? 韓信の列伝が二つあるのか?」と思つたが、同名の別人である。後者は「韓王信」と記して区別したりもしてゐるが、紛らはしい。)しかし、その多くは、漢王朝が成立すると、粛清されてしまふ。
韓信(淮陰侯)は、蕭何・張良とともに漢の建国に功のあつたいはゆる〝漢の三傑〟で、「韓信の股くぐり」「国士無双」「背水の陣」「狡兔死して良狗烹らる」など多くの故事で知られる。次の高祖との会話も印象的で、教科書にもよく採られてゐる。書き下し文と通釈(現代語訳)で引く。
上、常に従容として信と諸將の能不を言ふ。各差有り。上、問ひて曰く、我の如きは能く將たること幾何ぞ、と。信曰く、陛下は能く十萬に將たるに過ぎず、と。上曰く、君に於ては何如、と。曰く、臣は多多にして益善きのみ、と。上笑ひて曰く、多多益善くば、何為ぞ我が禽と爲る、と。信曰く、陛下は兵を將ゐること能はざるも、善く將を將ゐる。此れ乃ち信の陛下の禽と爲る所以なり。且つ陛下は所謂天授にして人力に非ざるなり、と。
【現代語訳】
高祖は何時もくつろいで、韓信と、将軍たちの能力について論議した。それぞれに差が有った。高祖は、「私のような者は、どのくらいの軍勢を率ることができるものだろうか」と韓信に問うて言った。韓信は、「陛下は十万の兵力を率ることができるにすぎません」と言った。高祖は、「君はどうなのか」と言った。韓信は、「私は、多ければ多いほどいいのです」と言った。高祖は笑つて、「多ければ多いほどいいというのに、なざ私の配下になっているのか」と言った。韓信は言った、「陛下は兵を率いることはできませんが、将軍たちを指揮するのがうまいのです。これが、私が陛下の家臣になってゐる理由です。そもそも陛下は天賦の才の人で、その才は人間の能力ではないのです」と。
最後に「高祖は、天から王としての天賦を授けられてゐる」と持ち上げてはゐるが、やはり不遜な態度で危ふさを感じる。果たして、韓信は、漢王朝成立後に粛清されてゐる。しかも、韓信は、蒯通に、斉王となつて項羽・劉邦と天下を三分することを奨められた時に、劉邦への恩義から蒯通の意見を聴き入れずに漢(劉邦)に与したにも拘はらず…。
黥布や韓信や樊噲のやうな派手な活躍は無いが、命を顧みずに信念を貫いて直言した者もゐる。
例へば、周昌は、高祖が、太子を廃して寵愛する戚姫の子の如意を太子に立てようとした時に、大臣たちも止められない中、強く諫めて思ひ止めさせて、呂后に感謝された。その後、高祖は、自分亡き後の如意(趙王)の身を案じ、周昌を趙の宰相に任じた。そして、周昌は、高祖の死後、呂后が如意を召したが、誅殺されることを恐れ、病と称して行かせなかつた。しかし、結局、如意が毒薬を飲まされて死ぬと、病と称して参内せず、3年後に死んだ。
また、欒布は、恩義のある彭越を、高祖が謀反の疑ひで処刑してその首を市中に梟した際には、その首を取り納めるやうな者は処刑するとされたにも拘はらず、彭越の首を手厚く葬り、声を上げて泣いた。捕へられて高祖の前に引き出されて煮殺されさうになつても、平然として、彭越の功績を挙げ、謀反の形跡も無いままに誅殺したのでは、他の功臣たちの疑心暗鬼を生む、と批判した。(その結果、高祖は、欒布を赦し都尉に任じた。現代のあちらやこちらの大統領や首相と違ひ、高祖には、正論を聴き入れる度量があつたのだらう。)
小生、『史記』を読んでゐて地名の位置を(重要さうなものだけだが)確認するのに、主に譚其驤『簡明中国歴史地図集』(中国地図出版社)を利用してゐるが、書庫の整理をしてゐたら、以前買つた(20年近く前に買つて忘れてゐた)『陳舜臣中国ライブラリー別巻 中国五千年史 地図年表』(集英社)が出てきた。『簡明中国歴史地図集』は、掲載されてゐる地名は多いのだが、地図の範囲が広いためかなり縮小されてゐてやや見づらく、表記も簡体字だが、『陳舜臣中国ライブラリー別巻 中国五千年史 地図年表』は、地図の範囲は狭く、掲載されてゐる地名は少ないが、表記は日本の通常の字体(常用漢字体)なので、小生のやうな初心者には判りやすい。巻末に、王朝時代別の「地名索引」と「中国五千年史年表」を付す。

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