2025.12.19
吉行淳之介『星と月は天の穴』(講談社学術文庫)読了。初めて読んだのは高校生の時で、その時は観念的にしか理解してゐなかつた。前にも書いたが、吉行淳之介は高校の頃から偏愛する作家の一人で、『星と月は天の穴』に限らず主要な作品は何度も読んだ。最近は読書の中心が古典となり、遠ざかつてゐたが、荒井晴彦監督で映画化されたので、この機会にまた読み返してみることにした。
この作品が書かれたのは1966年(昭和41年)、半世紀以上も前のことで、日本の社会環境も風俗も変はつてしまつてゐる。文学作品を理解するには、まづその作品が書かれた場(社会・時代・文化)に身を置くことが必要である。
主人公の矢添克二は、小説家である。結婚生活に失敗して、10年以上独身を通して、40代を迎へてゐる。女性と精神的な繫がりを持つことを怖れてをり、必要な時に娼婦の千枝子と逢ふが、精神の平衡を保つために女を〝道具〟と見做さうとしてゐる。矢添は、「もしも一人の女にたいして、精神的になっている自分に気付いたとしたら、そのことを胡散臭く感じるだろう」と思ひ、「その胡散臭さの内容を、底のほうから調べてみる」ために、小説を書いてゐる。そして、画廊で出逢つた女子大生・紀子と関係を持つ中で、矢添の心は揺れ動く…。
読み返してみて、矢添は(矢添の心象を描く作者も)、自意識過剰、いや他者に対しても(自分との関係について)意識が過剰である。若い頃に読んだ時は、自分もさうなのでそれほど感じなかつたが、長く生きる中で過剰な感受性の棘を磨り減らした今読むと、共感できる部分もあるが、やや鬱陶しさを感じることは否定できない。ただ、さうした捻れた繊細さが、吉行の吉行たる所以であらう。また、紀子と連れ込み旅館に入つたものの欲情を感じないでゐた矢添が、掃除が不十分で壁の棚の下に埃とともに数へ切れない男と女の毛が絡み合つてゐるのを見てはげしい欲情が衝き上がるところや、結末で矢添の隠してゐたものがはつきりと顕れた場面(ネタバレになるので具体的には書かない)など、ディテールの巧みさはさすがである。
ちなみに『月と星は天の穴』といふ題名は、作中で矢添が書いてゐる小説の題名でもある。矢添がこの題名を思ひ付いた場面を引用しておく。
戸外へ出ると、夜になっていた。鳥料理店の門口から二、三歩あるいたところで彼は立止まり、俯いて煙草に火をつけた。
傍で、紀子も立止まり、空を眺めている。
「星があんなに沢山」
彼もまた空を見上げた。空は大きく、星は無数にある。
「あんなに綺麗に光っているのに……」
紀子のその声は、世間から祝福される男女関係に身を置けない自分を悔やんでいるように、聞こえた。
矢添は、皮肉に言う。
「あんなものは、空の穴ぼこだよ」
「…………」
「月は、もっと大きな穴ぼこだ」
反撥の口調であることに、彼は気付く。なににたいしての反撥なのか。恋愛というものを美しくおもい、その情熱を貴重なものとみなすことへの反撥である。しかし、反撥する、ということは、その対象とのあいだに冷たいはっきりした距離ができていない証拠ともいえる。
恋愛というものの情熱に、いろいろの形で引きまわされていた時期の名残を、彼はそのとき感じた。まだ、十分には抜け切れていない。しかし却ってそのために、シニックな喜劇風の味を摑むことができそうだ。恋愛の構造自体をつめたい情熱で眺めてゆく作品の前触れとして、いまの作品を書きすすめてゆくことが、現在の自分にとって最もふさわしい作業かもしれない。
『星と月は天の穴』
不意に、その言葉が彼の脳裏に浮び上った、いま書いている小説の題名として、その文句はどうだろうか。
そして、この題名は、この作品の題名にもなる。矢添にとつて、小説の主人公Aと自分とは重なり合はず、はつきりとした距離があるが、自分の分身でもある。矢添と紀子の関係が変化してゆくのと並行して、小説中のAとB子の関係も変化してゆく。矢添は、自問する。
AはB子に会って、自分自身を恋愛状態に置いた。瀬川紀子に会った自分は、自分たちを牡犬と牝犬との関係に置こうとしている。しかし、この二つの場合には、ある類似点がありはしないだろうか。
自分は、ことさら紀子を手荒く取扱っている。それは、女とのあいだの濃密な人間関係への憎悪と恐怖のためである。しかし、隣合せにあるのは、そういう関係への憧れではないか。その点で、自分はAと重なり合う。
『星と月は天の穴』は、小説の中で小説が書かれ、いはゆるメタフィクションの要素があるが、最近読んだ(読み返した)本では、永井荷風の『墨東綺譚』も主人公の小説家・大江匡が小説「失踪」を執筆中だつた。ただし、吉行の方がこの手法をはるかに意識的に用ゐてゐる。
映画『星と月は天の穴』(荒井晴彦 監督)も観たので、とりとめのない感想を記しておく。(荒井は、『赫い髪の女』『遠雷』『Wの悲劇』『ひとひらの雪』『福田村事件』などの脚本を執筆(一部共同執筆あり)、『花腐し』『火口のふたり』などでは監督・脚本を担当し、高い評価を得てゐる。)
映画は、モノクロームだが、時に脣や盲腸の傷跡などに〝赤〟が添へられる。また、主演の綾野剛のつぶやきともに、小説の文章が白抜きの字幕で画面に現れる。(邪道だが、荒井も言ふやうに、ゴダールなども使用する方法である。)綾野は、あへて抑揚を抑へた無機的な話し方をしてゐて、矢添の虚無的な感じが出てゐる。紀子役の咲耶も初めはあまり感情の籠らない話し方だつた。(矢添との関係が深まるにつれて感情が伝はる台詞廻しになつたやうに思ふが…。)濡れ場も、やや戯画的なものになつてゐる。かうした表現で、やや現実感の薄い、大人の童話のやうな作品になつてゐる。(ただ、小生は、矢添の隠してゐたものの扱ひや〝こじらせ男〟といふ惹句には、若干違和感を感じるが…。)
また、原作は1966年の発表だが、映画は舞台を1969年に移し、小説の背景として70年安保闘争やアポロ11号の月面着陸が描かれ、紀子の恋人も活動家とされた。監督荒井の思ひ入れなのだらう。



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