永井荷風『断腸亭日乗(三)』

積ん読解消 読書日記

2025.05.09

 永井荷風『断腸亭日乗(三)』(岩波文庫)読了。
 第三冊は、昭和4年から昭和7年まで
 この間、荷風は体調不良を訴へ、頻繁に医者通ひをする。創作活動も停滞してゐた。日々の日課は、読書と散歩である。
 読書の対象は、最初はもつぱら漢籍で、『列子』『淮南子』『荀子』『韓非子』『文選』といつた書を読んでゐる。さらに、江戸時代の文人の随筆や紀行を読み、近松門左衛門井原西鶴の創作などを読む。時折、フランス語の小説や評論も読んでゐる。現代(当時)の日本の作家の文章は、ほとんど読んでゐない。荷風自身、昭和4年11月6日の記事で次のやうに語つてゐる。

燈下西鶴の一代男をよむ、余始めて西鶴の好色本を繙きしは洋行前二十二三歳の頃なり、それより今日に至るまで凡三十年再読の暇なかりしが、余は近年に至り甚だしく現代人の著述を厭ふのみならず、言文一致の文章は鷗外先生のものを除きては一切読むことを欲せざるを以て、座右往々にして手にすべき書なきに苦しむことあり、是今日たまたま西鶴の書を繙きし所以なり、

 そして、東京の町を歩き、牛籠(牛込)や銀座の酒館やカッフェーで飲食をする中で、移り行く東京の町並みや人心を嘆く。昭和4年1月31日の記事。(文中の「三番町」は、荷風が妾の「お歌」にやらせてゐる待合「いく代」のこと。)

夜三番町を訪ふ、撫象子来り飲む、撫象英児等昨夜も一昨夜も深更に来りて野暮な遊びをなし、藝者を人間あつかひにせず、玩弄侮辱すること全く色情狂者の行為に似たるものありと云ふ、余お歌の語るところを聞き、今更の如く芝居活動写真等に関係する人間の趣味性行のいかに劣陋野卑なるかを知り、慨歎すること甚だし、彼等当世の青年は待合に出入するも藝者の心意気も察せず、お客となる作法も知らず、人情もなく涙もなく全く醜怪なる獣にひとしきものなり、彼等は今日の劇場に演ぜらるゝ江戸の戯曲を品評し、俳優の技藝を批評すれども、酒の飲み方も知らず遊び方もわからぬやうにては、近松が作りたる梅川や小春の心事のわからう筈はなし、啻に江戸文学を解する能力なきのみにあらず、西洋の騎士気質などいふ事も彼等には到底解すること能はざるものなるべし、人心の下落せしことも亦甚だしきなり、

 また、昭和4年5月22日の記事。三上於莵吉の酒乱の様子及び三上が自分の原稿料の事を吹聴した事を聞いて嘆く。

現代の人間の中文士画工及政治家の心中野卑なること最も甚だしきが如し、藝者や女給女中などは文士議員等に比較すれば遥に品格も好く義理人情をも解するものと謂ふ可し、予は久しく文壇の人と交遊せざるを以てかくまでに文士の一般に堕落せりとは心つかず、独り菊池寛山本有三等をのみ下等なる者と思ひ居たりしが、この夜始て予が見解の謬れるを知りぬ、

 そして、昭和4年8月24日の記事では、中村敬宇(正直)『敬宇文集』を読み、その「文章之高下視人品之高下」(文章の高下は人品の高下に視(なずら)ふ)・「文章之盛衰亦関係于国家治乱之故」(文章の盛衰も亦た国家治乱の故に関係す)といつた言葉に共感し、「余嘗て小説作法を草せし時言はむと欲して言ふ能ざりしもの、今偶然之を先哲の文章に就いて見ることを得たれば喜びのあまりこゝに抄録するなり」と記してゐる。(引用文の漢文の訓読は、堀川貴司によるもの。以下同様。)荷風は俗物が嫌ひだつた。(もつとも荷風自身が人格高潔かどうかは、疑問を抱く向きもあるだらう。)
 ところで、荷風は老いと病を嘆きながらも、女性関係は活発であつた。荷風自身も健康のやや恢復した昭和5年12月31日の記事にかう記してゐる。

されど予が健康今年は例になく好き方にて夏の夜を神楽阪の妓家に飲みあかしたることも屢なりき、五十二歳の老年に及びて情痴猶青年の如し、笑ふ可く悲しむ可く、また大に賀すべきなり、白楽天の詩に曰く老来多健忘惟不忘相思(老来 多く健忘すれども、惟だ相思ふを忘れず)

 ところで、『断腸亭日乗』では、昭和4年5月の記事から、日付の上に〝・〟(黒点または朱点)が付いた日が現れる。おそらく女性と性交渉を持つた印だらうと言はれてゐる。(中には、ちと疑問のある日もあるが…。)
 荷風は、昭和2年に、藝者をしてゐた「お歌」と出逢ひ、気に入つて身請けし、翌3年に麴街三番町で「いく代」といふ待合をやらせてゐた。日記中に「三番町を訪ふ」などと書かれてゐるのは、お歌のもとを訪れてゐるのである。「三番町」「小星」といふのは「お歌」の隠語である。(「小星」は、『詩経』「国風」の「召南」中にある語で、「妾」の意とされる。異説あり。)お歌は、荷風が最も長く(約5年間)関係を持つた女性である。荷風は、お歌を妾にし、頻繁に行動をともにしてゐたが、その関係に隙間風が吹く。昭和5年正月9日の日記に荷風はかう記してゐる。

晩間オリンピヤに飰して三番町に往く、図らず一事件あり、之がために亦図らず小星の為人余が今日まで推察せしところとは全く異りたるを知り窃に一驚を喫したり、かの女その容姿は繊細にして、挙動婉順に見ゆれど、内心剛胆にして物に驚かず、天性頴悟敏捷にして頗権謀に富むこと男子に優る所あり、人は見かけによらぬとの諺はあれど余は今日まで斯の如く外見内心の相反したる女子を看たることなかりき、斯くの如き女子は不時の病にかゝりて夭死するか或は才気を恃みて却て生涯を誤るものなるべし、余は何とも知れず恐怖の念胸底に湧起こるをおぼえたり、

 昭和6年6月24日の記事。

終日家に在り、旧著麻布襍記を刪定す、晩餐の後雨の晴るゝを見て小星を訪ふ、小星余の帰るを送りて麻布に至らむとする途中、車上遽に発病、苦悶のあまり昏眩絶倒す、家に抵るや直に番町藝妓見番出入の医師柳川氏を招ぎ応急の手当をなさしむ、然れども何の病なるを知ること能はず、余の看る所を以てすれば早打肩と称するものゝ如し、看護して暁に到る、

 その後、荷風は、お歌を自身の掛かり付け・大石医師の「中州病院」に入院させる。退院後の8月26日の記事。

病婦は其身不治の難病に罹かりしを知らず、一時余と別れ病を養ひし後再び左褄取る心なるが如し、過日大石国手の忠告によれば病婦は遠からず発狂すべき虞あれば今より心して見舞ひにも成りたけ行かぬやうにせよとの事なり、されど此の年月の事を思返せば思慕哀憐の情禁ずべくもあらず、病婦やがて発狂するに至らばその愛狗ポチが行末もいかに成行くにやと哀れいや増すばかりなり、

 かうして、お歌は荷風と別れることになる。(その後、待合「いく代」処分に際し、家主が家賃を二重取りしてゐたのを半額取り返し、病気見舞としてお歌に贈るなどして交流は復活するが、男女の仲では無くなつたやうだ。)荷風は、お歌が精神の異常を来したと思つてゐたやうだが、お歌自身の言葉(「日蔭の女の五年間」)によれば、お歌は荷風が浮気をしてもほとんどやきもちをやくことは無かつたが、Sといふ芸者との一件は耐えかねることで、仮病を使つて荷風と距離を置いたとのことである。
 このSといふのは、荷風が身請けした「さん子」「山次」「山児」「簪児」とも記される)、後に「園香」と呼ばれる女性である。さん子と知り合つた昭和5年以降、日記の日付に黒点が頻繁に付けられるやうになる。荷風は、さん子に性慾だけでなく創作意欲をも刺戟されたやうだ。昭和5年2月16日の記事。

暴暖、彼岸過の天気に似たり、午下牛門若宮小路の妓家を訪ひ昼餉を食す、さん子と呼べる女の語りし稚きころの物語をきゝて短篇小説の好資料を獲たり、その事は別冊の備忘録にしるす、

 この短篇小説とは「ひかげの花」のことである。さらに、昭和5年11月20日には「久しく腹案の小説を起稿す」、12月10日に「短篇小説夢脱稿、夜番街に往く」とある。
 荷風自身、昭和6年2月12日の記事に次のやうに記してゐる。

園香初め牛門若宮小路に在り山子といひしなり、去年正月二十四日中州病院の帰途尾沢薬舗裏の待合新春日といふ家にて始めて相知りしなり、余此の妓のためには散在も尠らざる次第なれど、久しく廃絶せし創作の感興再び起来りて、此頃偶然悪夢紫陽花など題せし短篇小説をものし得たるはこの妓に逢ひしが為めなり、一得あれば一失あるは人生の常なれば致方もなし、

 実際、この頃、荷風の日記には「執筆」の文字が増えてゐる。そして、後期の名作とされる『つゆのあとさき』をものすことになる。この機会に『つゆのあとさき』を読み返してみようかな?
 また、昭和7年の日記には、町歩きをしながら荷風自身が描いたスケッチがいくつも日記に添へられてゐることも付記しておく。

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