永井荷風『断腸亭日乗(二)』

積ん読解消 読書日記

2024.11.25

 永井荷風『断腸亭日乗(二)』(岩波文庫)読了。
 第二冊は、大正15年から昭和3年まで。
 荷風は、一貫した思想も無く上辺の西洋化に専心し変貌してゆく東京に失望する。変はりゆくのは、東京の姿だけではない。大正15年8月11日の日記から引く。

此一事を以て観るも、時勢に伴ひ人の心のいかにかはり行きしかを知るに足るべし。文学者の気風も今は全く一変し、菊池寛の如き者続々として輩出するに至りしも、思返せば亦怪しむに及ばず。

 また、荷風は、50歳を意識し、しきりに自己の老いを嘆く。例へば、昭和2年9月8日・9日の日記では、次のやうに綴つてゐる。

病後気力俄に衰へ筆を執らむと欲すれども得ず、…

余自身の心持にては読書創作両つながら思ふが如くならず、身体精神の衰弱年々甚しくなり行くやうなり、…

 しかし、確かに本格的な創作はほとんど行はれないが、読書に関しては、鷗外全集の配本を読むのみならず、江戸・明治の漢詩文を熱心に読み、時にフランス文学を原書で読んだりもしてゐる。
 特に、成島柳北の孫の大嶋龍一氏が訪れて、柳北伝の執筆を依頼されると、その執筆は辞しながらも、大嶋氏から借り受けた柳北の日誌・書簡を熱意を持つて読みかつ書き写してゐる。荷風は、関東大震災の後、森鷗外の史伝に触発されて、母方の祖父鷲津毅堂やその周辺の幕末維新の漢詩壇の人々の姿を描いた(『下谷叢話』)。東京大空襲で、「断腸亭日乗」以外の草稿や蔵書のほとんど、そして筆録した柳北の日誌も焼失してしまつたが、さうでなければ柳北伝も書かれてゐたかもしれない。
 また、荷風は、この時期、麹町の妓お歌を身請けして三番町に囲ひ、一度情を交はした銀座のカフェ「タイガー」の女給お久にしつこくたかられ警察沙汰にまでなつてゐるなど、女性関係も涸れてゐるとは言へない。昭和2年9月17日のお歌についての叙述を引いておく。

夜お歌と神田を歩み遂にその家に宿す、お歌年二十一になれりといふ、容貌十人並とは言ひがたし、十五六の時身を沈めたりとの事なれど如何なる故にや世の悪風にはさして染まざる所あり、新聞雑誌などはあまり読まず、活動写真も好まず、針仕事拭掃除に精を出し終日襷をはづす事なし、昔より下町の女によく見らるる世帯持の上手なる女なるが如し、余既に老いたれば今は囲者置くべき必要もさしては無かりしかど、当人頻に藝者をやめたき旨懇願する故、前借の金もわづか五百円に満たざる程なるを幸ひ返済してやりしなり、…

 このお歌は、荷風が最も長い期間関係を続けた女性となる。

 荷風は、昭和3年12月31日の日記で、50年の生涯を顧みて相変はらず己の老いを嘆いてゐるが、実際には満79歳まで生き、我々はまだまだ荷風の日記を読むことになる。
 岩波文庫の『断腸亭日乗』第三冊は、来年3月刊行予定とのこと。

 閑話休題。小生、もとより浅学菲才の身ではあるが、『断腸亭日乗』を読んでゐるとしばしば未知の漢語が現れ、己の不勉強を思ひ知らされる。

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