関根慶子 訳注『寝覚(上)』

積ん読解消 読書日記

2025.08.08

 関根慶子 訳注『寝覚(上) 全訳注』(講談社学術文庫)読了。全3冊の中の一。
 小生、『源氏物語』以降の王朝物語は、恥づかしながら『堤中納言物語』『狭衣物語』『住吉物語』くらゐしか読んでゐないので、順次読まうと思ひ『寝覚』から取り掛かつた。(従来、平安時代後期の物語は『堤中納言物語』くらゐしか教科書には掲載されなかつたが、最近は他の作品も採られるやうになつた。)
 『寝覚』は、平安時代後期に成立した王朝物語『夜の寝覚』『夜半の寝覚』『寝覚物語』などとも呼ばれる。作者は、菅原孝標女説が有力だが、定説にはなつてゐない。伝本は五巻本と三巻本系統に分かれるが、いづれも中間と末尾に大きな欠脱がある。(欠脱部分の内容は、古筆切や改作本『夜寝覚物語』・『寝覚物語絵巻』・『無名草子』などの史料から推測作業がなされてゐる。)本書は、唯一の三巻本「前田家尊経閣文庫蔵本」を底本とし、底本に従つて上中下の3冊としてゐる。題名は、物語冒頭の主題を提示する次の文章に拠る。

 人の世のさまざまなるを見聞きつもるに、なほ、ねざめの御なからひばかり、あさからぬ契りながら、よに心づくしなるためしは、ありがたくもありけるかな。

【口語訳】
 男女の間柄の種々さまざまであるのを、今までずいぶん見聞きしているが、なんといっても、寝覚めのお二人の仲ほど、深い宿縁で結ばれながら、じつに心労の限りを尽くすといった例は、めったにないものであったことよ。

〝寝覚の恋〟は、和歌では早くから詠まれてきた題材である。
 物語の女主人公は、太政大臣の「中の君」で、美しく、音楽の才にも恵まれてゐた。男主人公は、左大臣の長男の「中納言」で、「中の君」の姉(太政大臣の「大君」)の婚約者だつた。中納言は、乳母の見舞ひに訪れると、たまたま隣家に方違へに来て箏の琴を引いてゐた中の君を垣間見、契りを結ぶ。ただし、中納言は、中の君のことを但馬守の三女と誤認し、自分のことは別人だと思はせる。中の君は、この一度の逢瀬で誰の子かも判らないまま懐妊し、苦悩の日々が始まる。そして、中納言も相手が太政大臣の中の君であることを知り、中の君も相手が中納言すなはち姉大君の夫であることを知り衝撃を受ける。やがて、中の君は、親にも内緒で女児を出産する。大納言(中納言から出世した)との関係は周囲に隠してきたが、結局大君の知るところとなり、大君の夫婦関係・姉妹関係ともに破綻し、中の君の苦悩は深まる。(この後、中巻との間に伝本の欠脱により約8年間の空白あり。)
 物語は、『うつほ物語』や『源氏物語』の影響が感じられるが、描かれてゐるのは女主人公「中の君」(「寝覚の君」)の悲嘆である。ただし、この上巻では、「中の君」は、どうしたらよいか判らずにただ泣くだけで、苦悩の深さは十分には描かれてゐない。(もつぱら描かれるのは「中の君」の侍女「対の君」の困惑である。)また、「中納言」(途中から「大納言」)は、「中の君」に冷淡にされて(といふか「中の君」は手紙を見ても無反応)、悲しみに暮れてゐるが、そもそも情を交はした女に対し他人を騙るといつた不誠実・軽率な行動が「中の君」を悲劇のどん底に突き落としたといふ自覚が薄く、同情する気にはなれない。
 この後、「寝覚の君」はさらなる波瀾万丈の人生を歩み、その内面の懊悩が描かれるやうなので、中巻以降を期待して読みたいと思ふ。

コメント