久保田淳 校注『百人一首』

積ん読解消 読書日記

2025.06.14

 久保田淳 校注『百人一首』(岩波文庫)読了。
 『百人一首』は何度も読んだが、5月に岩波文庫から久保田淳の校注で『百人一首』が出たので、また読むことにした。久保田は、王朝和歌研究の第一人者で、『新古今和歌集全注釈』(角川学芸出版)・『藤原定家全歌集』(ちくま学芸文庫)など多くの著作がある。
 『百人一首』の本文を各和歌ごとに掲げ(底本は宮内庁書陵部蔵「詠哥大概」に合綴された文安二年堯孝写本)、出典となつた勅撰集での詞書・訳・出典勅撰集名・巻数・部立・歌番号を記す。続いて「解釈」の中で、校異・語誌、近世の下河辺長流『百人一首三奥抄』・契沖『百人一首改観抄』・賀茂真淵『宇比麻奈備』・香川景樹『百首異見』を中心とした古注釈に触れながら、その和歌の背景や受容などについても解説する。さらに『百人一首』に収録されてゐない『百人秀歌』の和歌4首の解釈、解説・作者一覧・出典としての十勅撰集・和歌史年表・主要参考文献を付す。一首の解説には、ほとんどが4ページを費やすが、中には見開き2ページのものもある。例へば、参議等「浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき」の解釈を引いてみる。(ふりがなは省略。引用されてゐる古注は、送り仮名を少なく送つてゐるので注意。)

解釈 「浅茅生」は茅萱(イネ科の多年草)がまばらに生えた所。「浅茅原」という語が『万葉集』で「浅茅原小野に標結ふ空言をいかなりと言ひて君を待たしむ」(巻十一・二四六六・柿本人麻呂歌集)などと詠まれている。「篠原」は篠(細い竹、笹など)の生えた野原。近江国の地名にもあるが、ここでは普通名詞。『古今集』に「浅茅生の小野の篠原しのぶとも人知るらめやいふ人なしに」(恋一・五〇五)という、題しらずの歌がある。『三奥抄』の「頭書」や『改観抄』はこれを源等の歌の「本歌」であるという。本歌取りの技法での本歌は中世和歌での用語だが、この歌を意識した可能性は多いか。
 「しのぶれど」の「しのぶれ」は上二段動詞「忍ぶ」の已然形。「忍ぶ」は、隠す、こらえるの意。『三奥抄』や『改観抄』は「浅茅生の小野の篠原」の句は、「しのぶとも」とか「しのぶれど」というための序(序詞)であるという。『三奥抄』が「序にして、しかも比也」という「比」は、比喩のことで、続いて「野には、惣じて、浅茅と云ものゝ生るがはじめなり。ほどふれば、またしのといふものに成て、其とき、ひとのめにはたつものなれば、それになずらへよせたり」と説く。有意の序詞であると言おうとしたのであろう。
 下句については、「忍ぶる恋はあらはすべきものにあらずして、おもひ余るを、みづからとがむるこゝろなり」と解し、『改観抄』もそれを踏襲する。詞書にいう「人」は女性であろうから、相手の女性に反省しているポーズを取ったということになるだろうか。
 助詞「の」の関係で、ノという音は多用される傾向があるのだろうが、それにしてもこの歌はノの繰り返しが多い。それが一種の快いリズムを形成しているのであろう。

 ところで、賀茂真淵は、考証的態度はありながら、解釈に際して国粋主義的な偏見が現れることがままある。例へば、大江千里「月見れば千々に物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど」の下句について、『三奥抄』や『改観抄』が『白氏文集』巻十五「燕子楼三首」の第一首目、「燕子楼中霜月夜、秋来只為一人長」に拠つたかとするのを、千里が白楽天の詩句を用ゐたこと自体は肯定しながら、「皇朝の歌文などにからの古事を用るは、まだしきほどの人のする事也。皇朝に限りもなく古事の多きをしらぬ故ぞ」と批判してゐる。香川景樹『百首異見』は、真淵の論を批判して、

大よそ歌に古事を引は、いたらぬ思ひをたらはすわざにて、只其盛をたすけんとするのみ。されば唐にまれ大和にまれ、世にいひならひ聞なれたる事どものよりくるにまかせて物せん事、自然の上にて、更に議論なき事也。何ぞ和漢を弁ずるのひまあらん。又世人の聞しらぬ限りは、古言といへども妄りに用ふべきにあらず。況や皇朝の古事ならんからに、人しらぬためしを引いづべけんや。此ぬしの古詩をとらるゝ事は過たりといへども、そも皆其世の人口に膾炙せる白氏の文集、或は詩経の類也。また其題を設てよまんは此論のかぎりにあらねば、もとよりとがむべからず。世にしらぬ故事をもとめ出て人の耳目をおどろかすこそ、却ていまだしき人のするわざ也けれ。

と述べてゐる。
 久保田も僧正遍昭「天つ風雲のかよひ路吹とぢよをとめの姿しばしとどめむ」の解釈の中で、真淵の姿勢を批判してゐる。

…『宇比麻奈備』も『続日本紀』を引くが、天武天皇が吉野宮で琴を弾くと天女が下って「をとめどもをとめさびすもから玉を…」と歌いながら舞ったという「古き説」を「浮説也」と言う。「天女しもからの玉を手にまかんことおぼつかなし。また天女は皇朝の言もて歌をうたへるにや。たゞ流言とこそ聞ゆれ。その興れるよしは、天下ををさめ給はん為とて、いともたふとき御おぼしよりなりたる事を、あらぬ事にいひなすこそ恐けれ」と憤慨しているのである。
 けれども、六歌仙の時代は国風と唐風とが多分に混交していたと思われるし、ましてや聖武天皇の治世の頃は西域からも渡来する人々や文物が少なくなかったから、このような慨嘆は文化の展開する様相を認めない、かたくなな姿勢というべきであろう。

 文学作品は、最終的には自分の身に引き付けて味はふにしろ、一旦はその作品が作られた場に戻さないと(時代背景や文学的伝統を踏まへて解釈しないと)正しい理解ができないだらう。

 ちなみに講談社学術文庫『百人一首全訳注』(有吉保 訳注)では、各歌を掲げ、現代語訳・語釈・出典・鑑賞・作者について記した後で、中世の古注『応永抄』・『経厚抄』・『頼孝本』の注文を掲出し、さらに問題になる箇所についてそれ以外の古注・新注にも触れながら解説してゐる。

 どちらも、ある程度古語や古歌についての知識があり『百人一首』も何度か読んだことがある人には興味深く読めるが、初めて『百人一首』を読まうとする人には、やや専門的過ぎるだらう。『百人一首』の鑑賞本は数へきれないほどあるので、自分に合つたものを選べばよいと思ふ。

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