永井荷風『断腸亭日乗(四)』

積ん読解消 読書日記

2025.10.21

 永井荷風『断腸亭日乗(四)』(岩波文庫)読了。
 第四冊は、昭和8年から昭和10年まで
 昭和8年9月22日の記事を引く。(引用文の括弧の中は、原文では割注。また異体字の一部は通行の字体に改めた。日付上の黒丸〝・〟は、女性と情を交はしたことを示すとされる。)

・九月廿二日。晴。松崎慊堂の慊堂日歴を読む(活版本にて濱野知三郎氏編纂なり)黄昏銀座に徃かむとて道源寺阪を下るに墓地の木の間より線香の薫り夕風につれて漂ひきたる。今年もいつか秋の彼岸とはなれるなり。風月堂にて晩餐をなし芝浦に黒沢を訪ふ。十時過キユペル茶店を過ぐ。高橋邦太郎氏在り。萬本杉野肥田高橋の諸子と共に芝口の佃茂に至りて浅酌款語暁二時に至る。此夜くもりて稍暑し。

 上の日記が典型的だが、荷風の日常は、相変はらず、昼間は読書か散歩(あるいは通院)をし、夕方から銀座に出て食事をしながら知人と歓談し、時々女性と交はりを持つといつたものである。
 読書の内容は、儒者松崎慊堂の日記『慊堂日歴』の他、江戸時代の随筆を集めた叢書『百家説林』(漱石や子規も愛読した)・森鷗外の著作・樋口一葉全集・フランスの現代文学(原書)などが主なものであつた。
 散歩をしては、変はりゆく東京の姿に失望する。昭和9年1月4日の記事。

正月四日。隂晴定まらず。風甚寒し。午後京橋第百銀行及丸善書店に徃く。日本橋より電車に乗り、浅草雷門に至り見るに、新春遊楽の男女雑遝し。路傍には蜜柑の皮紙屑散乱したり。また電車にて柳島に至る。されど妙見堂は趣なき新築の堂宇にて、境内には樹木なく、また碑碣の見るべきものもなし。徃時の旗亭橋本屋の址には汚きセメント造りの病院建てられたり。風さむく日も暮れかかりし故亀井戸には行かず、又電車にて銀座に至り松喜牛肉店にて夕飯を食し、喫茶店キユペルに小憩してかへる。寒月昼の如し。

 世事に関する感想が書かれることもあるが、概して冷淡な反応である。昭和8年2月22日、新聞は日本の国際聯盟脱退のことを報じるが(実際の脱退は3月)、荷風は「新聞紙頻に日本国際聯盟より脱退の事を報ず。」と事実を記すのみである。
 その一方で、品性下劣な者に対して厳しく批判をすることもある。昭和10年12月14日の記事。

十二月十四日。晴。正午室内華氏四十九度。燈刻小山書店主人来訪。
〔朱書〕壱百二十五円を贈らる。
岩倉全権大使米欧回覧記をよむに時々人をして失笑噴飯せしむるものあり。大使の一行には其副使として木戸大久保伊藤等の諸氏あり。この人々はわづか三四年前までは鎖国攘夷を以て日本の国是となし、徳川幕府が外国と修好貿易の条約をなしたるを憤り外国使節の客舎に火を放ち又は江戸城に忍入りて放火などせしもなり。伊藤博文が御殿山の英国公使館に放火せし浪士の一人なりし事は英人サトウの著書、又英国公使フレーザー夫人の著書に詳なり。然るにこの人々は明治四年米国に遊び官民の歓迎に酔ひ欣喜措く能はず其将に英国に渡航せむとする時次の如き文を作れり。
 米国人ハ外国人ヲ視ル一家の如ク交誼ニ厚キコト同胞ニ於ケルガ如シ 云々
 嗚呼此開明ノ際ニ当リ鎖国ノ宿夢ヲ醒シ世界交際ノ和気ニ浴センコト我日本ニアリテハ皆人喫緊ニ心ニ銘セサルベカラザルナリ 云々
 先年我日本ニ使節タリシペルリ氏此州ノ人ナレバ州人ミナ日本ニ於テハ米国中ニテ最モ親睦ナリトテ接遇ノ厚キヲ極メタリ 云々
この筆法を以てすれば堀田備中守伊井掃部頭は偉大なる開明人にして其が先見の明ありしこと薩長浪士の比にあらざるなり。

 政治家の正義や信念が御都合主義なのは、いつの時代も変はらないのだらう。菊池寛も舌鋒鋭く批判してゐる。早慶戦の後の早稲田・慶應の学生の乱暴狼藉についても嫌悪・蔑視を顕はにしてゐる。
 最初に引いた昭和8年9月22日の記事中の「黒沢」とは、この時期、荷風が親しんだ私娼「黒沢きみ」のことである。黒沢きみについては、昭和8年6月6日及び11月17日の記事の中で詳しく書いてゐる。

六月六日。晴。後にくもる。晩餐後黒沢きみの行衛をさぐる手がゝりを得んものと思ひて、兼て聞知りたる其親戚の家を浅草東三筋町にたづねしが遂に得ずして止む。おきみといふ女の性行経歴はこれを委しくさぐり出さば必小説の材料となすに足るべきものと思はれしが故なり。…

十一月十七日。快晴風あり。…
昏暮風歇む。烏森の佃茂に徃きて夕飯を食し、烏森境内の小待合真砂に徃き黒沢おきみに逢ふ。去年十二月の初蠣殻町小待合近藤の帳場にて始めて逢ひしなり。年廿五六。閨中秘戯絶妙。而も慾心なく頗廉価なり。元高嶋屋百貨店売娘なりしと云。夜十時過おきみと別れ独喫茶店きゆうぺるに至る。…

 実際、荷風は、この「黒沢きみ」をモデルとして小説「ひかげの花」を書いてゐる。

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